dragan2006-08-08

1990年代、世界最高のゴールキーパーと評価され、デンマーク代表とマンチェスター・ユナイテッドイングランドの)黄金期を支えたピーター・シュマイケル。カスパーはそんな偉大な父親を持つ19歳だ。

 U−19デンマーク代表にも選出され、現在は新加入のアンドレアス・イサクションスウェーデン代表)やゲルト・デ・フリーヘル(元ベルギー代表)らとともにマンチェスター・シティで切磋琢磨している。

 カスパーも182センチと世界的に見れば決して大柄ではないが、父親同様素晴らしいレスポンスが持ち味だ。しかし、父親のネームバリューが余りにも大きく、その双肩にかかる期待は想像以上のものがある。

dragan2006-06-30


2006年ドイツW杯の最終登録メンバーに滑り込んだ逸材。2004年のアテネ五輪で無失点優勝という快挙を成し遂げ、また昨年のコンフェデレーションズカップ準優勝の立役者ともなったヘルマン・ルクスリーベルプレート)を押しのけての代表入りには驚きと称賛の声が上がった。

 もともと実力の方は折り紙付きで、2003年にフィンランドで開催されたU−17世界大会出場、そして2005年のワールドユース・オランダ大会では、各国のGKの中でも突出した存在感を示して優勝に貢献している。特に、フィードキックはA代表のファーストゴールキーパーでもあるロベルト・アボンダンシエリボカ・ジュニアーズ)の精度と肩を並べるものがある。

 そのアボンダンシエリはW杯後に引退も示唆しており(後に撤回、スペインのヘタフェへ移籍)、今後はレオナルド・フランコアトレティコ・マドリー=スペイン)、先述のルクスらとA代表のゴールマウスをかけたポジション争いに身を置くこととなるが、今年20歳になる新鋭。もしも2人の先輩をベンチに追いやったとすれば、少なくとも今後10年は、アルゼンチン代表最大のアキレス腱といわれて久しいゴールキーパーの不安定さは解消されるであろう。

 国内のボアビスタに7年間所属し、リーグ優勝も経験した後、名門スポルティング・リスボンへ。代表チームでも2001年からレギュラークラスに昇格し、2002年も当然背番号1を背負うものと思われたが、前レギュラーのヴィトール・バイア(FCポルト)にその座を奪われ、チームもグループリーグ敗退という結果に終わった。
 
 しかしその後は押しも押されぬ守護神へと成長し、2004年に自国で開催された欧州選手権では素晴らしいパフォーマンスを披露。PK戦に縺れ込んだ準々決勝のイングランド戦では、なんとGKグローブを外して気合のPKストップ、そして勝利を決定するキックという離れ業をやってのけた。

dragan2006-06-19

 サンチェスが今まで陽の目を見ることがなかったのは、メキシコサッカー史上最も「記憶」に残るゴールキーパーホルヘ・カンポスの存在を追い続けなければならなかったからだ。

 1996年のアトランタ五輪では、地区予選から圧倒的なプレゼンスを発揮し続け、レギュラーは当確と目されていたが、オーバーエイジ枠で招集されたカンポスの経験の前に涙を飲んだ。
 
 また1998年フランスW杯でもカンポスの壁を超えられず、ベンチでチームの行く末を見守ることしかできなかった。

 2002年W杯地区予選でもゴールを守り、今度こそという時に指揮官が交代。身長171センチのオスカル・ペレスにゴールマウスを譲ってしまうことになる。

 しかし、その後も腐らずに邁進したサンチェスの努力がようやく報われる。2005年のコンフェデレーションズカップで抜群のパフォーマンスを見せ、W杯ドイツ大会でも、大会直前の父親を亡くすという不幸に見舞われながらも、ファーストキーパーとしての地位を不動のものとしている。

 カンポスほどの「ハラハラ」は少なく、見ていて安心できる選手である。ただ、しなやかな身のこなしや、驚異的なレスポンスはどこかしらカンポスの特徴を後継しているようだ。

 さて、今回からは、世界各国のゴールキーパー育成システムについて触れていきます。日本でも、GKプロジェクトや都道府県ごとにGKスクール、あるいはGKクリニックが開催されるようになったり、部活動やクラブチームでGKコーチを配するケースも多くなり、GKの技術も向上していますが、他の国の現状はどうなんでしょう?まずは、最近ファビアン・バルテス(引退)とグレゴリー・クペ(オリンピック・リヨン)の間での代表正GK争いが国民的話題となっているフランスからスタートです!


 *フランスの選手育成は、主に13〜15歳の「前育成段階」と16〜18歳の「育成段階」に分けられる。

 かつてサッカー弱小国と呼ばれたフランスのサッカー界で、世界に追いつくための選手の育成が本格的に始まったのは1972年のことであった。ジョルジュ・ブローヌ氏の指導の下、全国的な技術指導部門が創設され、同時に1974年には「国立サッカー研究所」も発足した。
 フランスサッカー協会(FFF)は、全国の各クラブにも育成機関を創るよう呼びかけた。当然のことながら、GKの育成にも目が向けられる。80年中期〜後期にフランス代表のGKとして活躍し、また日本代表の合宿にGKコーチとし参加したこともあるジョエル・バツは、このような国を挙げての取り組みに基づいて、フランスリーグに所属するソショーの育成機関の1期生として、その後の礎を築くこととなる。
 またバツは1992年に引退後、リーグ・アンの強豪パリSGのGKコーチとして、スペインの名門FCバルセロナにも所属したリシャール・デュトゥルエル、ベルナール・ラマら代表クラスのGKを育てた。

 現在、フランスの選手育成システムの中心として世界中に名をはせているのが「クレールフォンテーヌ(通称)」である。地方都市ランブイエに隣接するこの村に造られた「フランスサッカーの本拠地」は、もともと貴族の屋敷であった延べ面積56ヘクタールの敷地を国が買い取り、1988年1月に設立された。フランス代表が合宿を張る期間は勿論、それ以外の時期でも世界各国から視察や研修、さらには一般の企業セミナーなどで施設内は人が絶えることがない。主な施設は以下のようのものがある。

??フランス代表合宿宿舎
??INF(全国フットボール学院)
??10面のサッカーグラウンド
??全国女子トレーニングセンター
??研修用宿舎
??プレステント
??レストラン、カフェ等

 この中で中心となるのは、何といってもINFの存在だ。フランス国内で漠然とイメージされていた「前育成段階」でのトレーニングが具現化されたのこの施設がクレールフォンテーヌに移転してからである。

 現学院長はアンドレ・メレル氏。ゴールキーパーの育成にはフランク・ラビオ氏(U−21フランス代表コーチ兼任)とファブリス・グランジュ氏(U−16フランス代表コーチ兼任)の2名が携わっている。

 INFは俗に言う「選ばれし者」だけが入学を許されるという厳しい世界だ。まず対象となるのはフランス国内それも、パリ近郊に住む12〜13歳の少年のみ。志願者は毎年1000人以上いるというが、最初のテストで半数以上が脱落する。さらに2次、3次とテストがあり、最終的に24人に絞られるというわけだ。

 入学許可が下りた者は、クレールフォンテーヌ敷地内の寄宿舎で生活を送ることとなる。学校は一般の生徒と同じ机を並べて勉学に励む。クレールフォンテーヌでは勉学も重視しており、決してサッカー漬けの毎日ではないようだ。そして学校が終わった後、綿密なカリキュラムのもと2時間トレーニングを行う。
 
 他国のリーグに比べ、フランス・リーグディヴィジョン1においては、ワールドクラスのGKは少ない。代表クラスではレンヌのアンドレアス・イサクションスウェーデン代表)、モナコのフラビオ・ローマ(元イタリア代表)が主なところだ。これは、フランス協会が選手の「育成」に重きを置いているためであり、どちらかといえば、外国のGKも、世界に進出するためのステップアップの場といったスタンスでとらえている傾向があり、クラブ側も方針は合致しているように思われる(もちろん、資金面での問題もあるだろうが)。
 
 例えば、現在チェルシーイングランド)で確固たる地位を築いているペトル・ツェホ(チェコ代表)や、スペイン・リーガ・エスパニョーラで活躍するイドリス・カメニ(カメルーン代表)もかつてはフランスのクラブに籍を置いていた。
 こういった背景もあってか、国内のGKは「育成」を重視するフランスの施策が効果を発揮している模様だ。例えばフランス代表のミカエル・ランドロー(現パリ・サンジェルマン)は、前所属ナント下部組織から生え抜きでトップチームまで駆け上がっていった。

 

dragan2006-04-20

イェンス・レーマンは、ドイツ・エッセン出身の同国代表であり、イングランドプレミアリーグアーセナルに所属している。

1988年、ドイツブンデスリーガシャルケ04でキャリアをスタート。チームの守護神として君臨し、1996-97シーズンにUEFAカップ優勝も経験した。満を持して1997年にセリエAACミランへ移籍するが、セバスティアーノ・ロッシ(元イタリア代表)とのポジション争いに敗れ、レギュラーを獲得できずわずか1年でドイツへ復帰した。復帰先は以前所属したシャルケのライバルであるボルシア・ドルトムントだったためにシャルケサポーターから反感を買うが、正GKとして活躍し体裁は保った。

1998年フランスW杯、2002年韓日W杯のドイツ代表に選出されるが、オリバー・カーンの控えで出場はならなかった。以後カーンの不調もあって、代表に招集されるたびに「俺がナンバーワンだ」とお互い舌戦を繰り広げている。

2003年、アーセナルイングランド)へ移籍。デイヴィッド・シーマンの後継として正GKを務めている。移籍当初は不安定なプレーも多々目に付き、一時はマヌエル・アルムニア(スペイン)にポジションを奪われた。しかし、ここ2シーズンのパフォーマンスは他の追随を許さず、ついに2006年4月、ドイツサッカー協会(DFB)より、2006 FIFAワールドカップのドイツ代表正GKに起用指名された。そして本大会では全7試合中6試合でゴールマウスに立ち、ドイツのベスト4進出の立役者となった。

 ハイライトは準々決勝のアルゼンチン戦。1−1のままPK戦にもつれ込んだが、レーマンは見事に集中力を維持。ライバルでもあったカーンの激励や、アンドレアス・ケプケGKコーチ(94、98年W杯ドイツ代表)の「メモ作戦」もあって2本のキックをストップ!!
 
 またレーマンは、アーセナルで2005−06UEFAチャンピオンズリーグ10試合連続無失点を記録し、好調を維持。ファイナルのバルセロナ(スペイン)戦でも無失点をキープしていたが、18分にサミュエル・エトーに対するファウルで退場処分を受けた。

 30代後半となった現在でも鋭い反応は健在で、ディフェンディングエリアの広さも特徴。味方のボールを積極的に受けに行き、常に攻撃の起点となることをイメージしてプレーしている。

 屈辱のJ2降格から、5年ぶりに復帰を果たしたアビスパ福岡松田浩監督の下「ディシプリン(=規律)」を重視したサッカーで、J2でも素晴らしい成績を収めたが、チームを最後尾から鼓舞し続け、昇格の原動力となったのが水谷だ。
 1980年生まれの彼は、東京・町田のサッカークラブでボールを蹴り始め、高校時代は静岡の名門・清水商業に在籍。5学年先輩ですでに横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団していた川口能活(現ジュビロ磐田)が、母校のトレーニングに顔を出す時には直接指導も受けた。
 その影響が強く、目標であり尊敬するGKはもちろん川口。彼の若い時を彷彿とさせるコーチングやパフォーマンスも見物だ。